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先日告知いたしました、『九州むすめ』2009年カレンダーの募集開始です。 ご希望の方は、コチラをお読みの上、メールフォームにてご連絡ください。 なお、応募多数の場合は、抽選とさせていただきます。 ![]() 流れとしては、次の通りになります。 ・該当ページをご覧いただき、メールフォームに入力します。 ※この際、ハンドルネームとメールアドレス、「カレンダー希望」というメッセージのみで結構です。 (何かご連絡やご要望があれば、同時に記入していただけると助かります)。 ※住所やお名前(本名)は、発送が決定したらお伺いします。 この段階では記入しなくても結構です。 ・12月25日締切です。 ・12月中に発送のご案内をいたします。この案内があった後に、住所・氏名・電話番号をお知らせください。 ・申し訳ありませんが、送料をご負担ください。500円のエクスパックで送付予定です。 ・また、カレンダー制作の寄付をいただける方大歓迎です。ただ、大きな金額を支払うほどの内容ではありませんので、あらかじめご了承ください。 ・到着は1月上旬を予定しています。 以上、よろしくお願いいたします。 # by pusuo | 2008-12-06 01:44
1年半も放置しておきながら、突然の告知ではありますが、今年も、カレンダーが完成いたしました。 題して、「九州むすめ」2009年カレンダーです。 ![]() 九州を走る6形式の車両を、カレンダーにしました。 詳しくは12月上旬に紹介ページをアップしますので、しばらくお待ちください。 前回の日南線カレンダーと同様、ご希望の方には頒布いたします。 なお、その際は、誠に恐れ入りますが、送料+αをカンパしていただければ幸いです。 送料は、エクスパックを使用する予定ですので、500円です。 +αはキモチだけで結構です。 詳しくは、後日ここに書き込みいたします。 # by pusuo | 2008-11-27 23:57
母の葬儀の際、浄土真宗のお坊さんから、「お読み下さい」と渡された経本があった。中に書いてあるお経は、それまで全くの無宗派である私にとっては難解そのものだったが、一部解説が施されているのもあった。 いわく、戦乱の世の中で、いつ死ぬか分からないという混乱した世界において、ただ分かりやすく阿弥陀仏にすがることによって、現世と同じ死後の世界へ行けるいうものだった。 そんなムシのいい話があるもんかと思うのだが、しかし現在においても死後の世界が全く分からないのであれば、そういう教えに従いたくなるのも無理はないと思う。死んでまで借金を負わされたくないし、病気で苦しめられたくない。 全国どこにでもあるのだが、日本には「絵馬」という願掛けの風習がある。 神社に行けばたいてい見られる。「合格しますように」「病気が治りますように」「家族が仲良くいられますように」。いろいろな願い事が書かれている。こんな場所で願掛けするよりも、もっと適切な場所があるのではないか、そんなものもある。しかし、書いた本人は、当たればめっけもん、そういう気分で思いを記すのだろう。 もとは何もなかった杖立温泉の紅葉橋が、いつの間にやら屋根がかけられ、そしてこの絵馬のような「絵鯉」が吊されるようになった。多くの人の願いを見るというのは、なんだかその人の秘密を見るようで面白いものだが、書いた人の本心はいかがなものだろう。 それが現実になるというわけでもなく、ただただ気休めでしかないのだが、それでも人は絵鯉に願いを書き、吊す。なるべく御利益のありそうな場所を選んで。それがまた面白いと思う。当然私も参加する。 私の願いは……人に言うほどでもないので、このへんで。 # by pusuo | 2007-05-12 01:44
今年に入り、いろいろな事情で日記の書き込みが遅れてしまった。もともと出不精であるが故に旅行することも少なく、子供が3人いてなおのこと出づらくなってしまい、書く話もないというのが真相である。 「普通の日常生活でも書くか」と思うのだが、有名人や芸能人と違って一般人の日常ほどつまらぬものはない。それに付き合わされる人も迷惑だろうと勝手に思いこみ、書くのを控えていた。 これから書き始めるかもしれないが、あるいはまた長い休みに入ってしまうかもしれぬ。なにはともあれ、よろしくお願いします。 日記を読み返していて、ちょうど1年前に杖立温泉へ行ったのを見つけた。 あのときと同じ風景、同じ天気、同じ鯉のぼり。行楽客がちらほらと見えたのも同じ。だが、今回大きく違うことがある。祖父が亡くなり、娘が生まれ、そして、母が亡くなったことである。 祖父は95歳、その娘である母は65歳。まるで追うようにして亡くなった。母の闘病期間は非常に短く、病気が判明して半年ちょっとしか持たなかった。ある意味では苦しみが長くなかっただけ幸せだったのかもしれない。 去年の夏、祖父が亡くなったときと同じように親戚一同が集まり、葬儀が行われた。去年、「次に集まるのは祖母の(葬儀の)時だろう」と言っていた母が、まさか先に亡くなるとは思いもしなかった。人生とは不思議なものである。 杖立温泉には1週間弱滞在した。ゴールデンウィーク前半の行楽日和。幸せそうな家族連れが川辺で遊び、鯉のぼりを眺め、町を歩いている。私も、妻と子供達を連れて歩けば、その幸せそうな仲間の一つに入る。普段は両親のことをろくに気にかけてもおらず、電話が入っても邪険に対応するだけだったのだが。いなくなって初めてその大切さに気づく。陳腐な言葉ではあるが、それを思い出し後悔する。 杖立から帰ってきたあと、私は2枚の絵を描いた。1枚は昨年の日記の写真と同じ構図のそれ。もう一枚はさらに奥へ入ったところ。杖立温泉の路地裏は「背戸屋(せどや)」といい、昭和の雰囲気を残す非常に良い感じの場所である。これをどうするというつもりはないが、せめて、その昔、母と歩いた路地裏を思い起こそうとしたいという、悪あがきのようなものである。 # by pusuo | 2007-05-10 21:59
写真を見ていると、なぜか肥後小国駅だけ、複数のきっぷがあるのに気づかれることと思う。 宮原線が廃止になる前、勝手を知ったワタシも、郵便できっぷや入場券を買い求めていたし、廃止直前には実際に現地を訪れ、キハ40たった1両の列車に乗った。今からは考えられないほど、廃止直前とは思えないくらいにのんびりした風景が展開されていたが、やはり鉄道マニアは数名いた。彼らは一人で荷物類を散乱させてボックスシートを陣取り、他の客から顰蹙を買っているように思えた。 なぜか、肥後小国駅の情景が思い浮かべられない。砂利のホームに立ったこと、小さな子がそこでオシッコをしていたことしか思い出せない。きっぷも買ったはずだが、どんな窓口だったか思い出せないのは残念なことである。くだらない記憶しか残らないのは、ワタシの感性が少し歪んでいる証左であるといえよう。 実は、宮原線に乗るのは、これで3回目である。前回は、母と乗った。北里駅から乗ったと思われる。地下道からホームに登る階段を歩いていた。しばらく待つと列車がやってきた。実は、近年までこれが北里駅のことだとは知らなかったが、同駅に地下道と階段があるのを知り、それが記憶と結びついたのだ。 それより前は、ワタシが全く記憶にない頃らしい。父がワタシを宮原線に乗せたというのである。父によれば、その車両の中で、なぜかその車両の運転方法について、父に説明したらしい。が、その話を突き詰めていくと、キハ07の事であり、宮原線でキハ07が退役した頃、まだワタシは生まれていなかった。恐らく別の誰かと混同したのだろう。 ともあれ、縁のない宮原線ではあるが、きっぷは複数持っている。これはなぜか。実は、祖父が、「鉄道好きの孫のために」と、窓口できっぷを購入し、わざわざ送ってくれたものなのだ。肥後小国から、さらにクルマで1時間ほどの奥に住んでいた祖父は、鉄道を使ったことがほとんどない。だから、きっぷが、「○○駅→○○円区間」という標記になったことを知らず、駅で、「北里まで」「麻生釣まで」「宝泉寺まで」と、指定して買ったらしい。しかし、窓口から出てきたのは、かつて自分が知っている、「肥後小国→北里間」ではなく、料金表示のみのきっぷであった。 その無念さが手紙にしたためられていた。と同時に、祖父にとってワタシがいかに大切な存在かが分かった。遠く離れていて、だからこそ何かをしてあげたいという心。しかし、それは子供心には、なかなか届かないものなのだ。その心が、逆に、押しつけがましいと思って反発してしまう。そういった不幸な行き違いもままある事である。 そんな祖父であるが、つい昨年、2006年に94歳という長寿を全うして亡くなった。3人の子を育て、4人の孫を得たのだが、自分が実際に抱いた曾孫は、ワタシの息子のわずか2人。孫の成長を楽しみにし、ワタシが訪問すると喜んでくれたあの笑顔はもう見られない。本来であれば、もっともっと曾孫に恵まれても良かったのではないかと思うのだが、今の社会情勢ではそれを望むべくもなかった。 可能であれば、まだ存命の祖母に、ワタシの娘を会わせてみたいものである。 # by pusuo | 2007-02-01 00:58
さらに続き。 ワタシが硬券きっぷを買いあさっていたのは、第一次赤字ローカル線廃止時期に当たるので、その路線の駅のものが多い。 筑前勝田がある勝田線は、週末にふらりと乗ることのできる路線で、運転本数は少なかったけれども、自宅を少々早めに出れば往復できた。ここでは、勝田側からキハ20、キハ65、キハ35というバラバラの車両がつながって運転されており、それぞれに特徴があった。 キハ20はドアを手であける旧式車両だが、早めの時間に行けば、最前部の2人がけ席に座れる。ここだと前の景色も見え、ワタシを含む子供には大好評であった。 次のキハ65は、大馬力エンジンを持つ冷房付の急行用車両なのだが、なぜか勝田線にいた。勝田線は平坦で、急な坂などほとんどないのだが、いつも編成の中央で大きなエンジンを唸らせていた。夏場はさらに冷房用エンジンを回していたので、この車両の外では会話ができないほどうるさかった。ただ、編成中、唯一冷房がついているので、夏は当然のごとく人気が集まっていた。 後部のキハ35が最も人気がなかった。レールと平行に座るロングシート、つまり通勤電車のような座席だからである。別に人気がなかったからという理由でもないと思うが、後にキハ47に変わったと記憶している。 そんな勝田線列車に乗ると、吉塚駅を出発してしばらく篠栗線と同じ線路を走る。もともとは別路線だったようで、右隣には線路が撤去された築堤や橋台が草むして残っていた。新幹線をくぐり、「スパゲチ」という看板を見ると、おもむろに篠栗線と分岐する。ちょうど、今の柚須駅付近である。 御手洗という駅に停車する。駅名は面白いが何もない無人駅。この近辺は工業地帯というイメージが強かったのだが、志免に近づくと住宅街という雰囲気が出てくる。しかしその志免も、奥には志免炭鉱のコンクリート櫓がそびえ立ち、過去の栄華を物語っている。現在は福岡市のベッドタウンとして人口も増えている。勝田線がもし、廃止されずに残っていたらどうだったろう。そう思わずにはいられない。 志免も駅員配置だった。廃止がうわさされる頃に乗ったとき、駅に停車するや否やきっぷを買いに走り出した鉄道ファンの姿があった。当時は本当にどこでも鉄道職員がいた。 香椎線と接続するはずの宇美も、ワタシは勝田線の駅しか知らなかった。時刻表やものの本で、「香椎線の駅と離れている」と書かれていて、存在は知っていたが、実際に香椎線の宇美に降り立つのは、この後何年も経過してからである。なぜか、香椎線の香椎~宇美間は縁のない路線だった。1回だけしか乗ったことがない。 終点の筑前勝田に着くと、これまたローカル線の量産型木造駅舎があった。ここできっぷや入場券を買った。廃止直前、きっぷ類を買うと、駅構内に落ちているという石炭に、駅員が「さよなら勝田線」と手書きした記念品がもらえるという新聞記事があったが、ワタシが行った頃は、石炭の表面にその旨を書いた紙を貼り付けたものが渡された。多分、求める客が多くて手が回らなくなったのだろう。 廃止後かなり経過して、バイクでこの近辺を走った。通っていた学校が太宰府ということもあり、駅前を通ったことがある。駅はすでになく、公園状に整備されていた。しかし、太宰府まではほんの少しの距離しかなく、もし、そこまで延長されていたら状況が変わったのでは? と思う。しかしながら、鉄道が苦手とする坂が多く、実現の可能性は全くないと思われるが。 # by pusuo | 2007-01-31 10:07
下の続きです。 昭和58年の「竹下」「篠栗」「伊万里」などには、「小」のマークがついている。これらの駅は比較的きっぷの販売枚数が多かったらしく、「小児運賃」のきっぷが用意されていた。 きっぷの販売間数がさほど多くなさそうな、田舎の駅に行って小児運賃できっぷを買うと、大人運賃(普通のきっぷ)の右肩を切られた、小さなきっぷを渡されたこともある。画像でも、普通のきっぷの右端に、「小」と書いてやや斜めの縦線が描かれているのが見えるが、そこをカットするわけである。 もちろん、わずかでもきっぷに興味があるこちらとしては、切り落として欲しくないと思うのだが、それで倍の運賃を払うわけにもいかないし、しかも当時は無人駅にでも降りない限り、ほぼ100%駅できっぷを回収していた。欲しいと言っても、もらえなかった。子供だったからかもしれない。 昭和58年までは半額運賃で、伊万里やら篠栗やら遠賀川(そしてその先にあった室木線へも)出かけていたらしい。らしい、というのは、小学生の頃にそんな大層な所に行ったかどうか、自分でも記憶があやふやなのだ。親はよく許してくれたと思う。 しかし、その次の年に中学生となると、運賃はいきなり倍になる。どこかへ出かけるのを躊躇した記憶がある。 中学生になりたててであれば、制服でも着て行かない限り、外見上は子供だか大人だか分からない。背も低かったワタシが、小学生だと主張して列車に乗ることも可能だったろう。が、これはモラルの問題であって、給食費を滞納できる人であればそうするとは思うし、実際そうやって乗っている友人もいたようだ。 だが、モラル以前に、かつて幼稚園児の頃、無賃で列車に乗らされた記憶が鮮明に蘇るからこそ、あえて正規運賃を払っていたのだ。 大阪の親戚に会いに行ったとき、京阪電車で街へ行くという話になった。どこへ行ったかは覚えていない。最寄り駅は牧野だが、急行が停まらないということで、隣の樟葉駅へ行った。 すでにワタシは幼稚園児だったのだが、やはり小さめだったので、親は3才=タダ、として運賃を払わなかったらしい。駅員から咎められることもなかった。まんまとワタシをタダ乗りさせた親は満足だったようだが、ワタシはプライドを傷つけられた気がして、5才というのにもかかわらずホーム上で文句を言ったのを覚えている。 今、もしワタシが親の立場であればどうするか? 息子が3才になってから、まだ公共交通機関に乗ったことがない。しかし、少なくとも長男は、幼児というにはもう立派な感じがする。だから小児運賃を払うだろう。長男にも(ワタシがそうであったように)プライドがあると思う。 が、問題は、そうやって正直に対価を支払うことを教えることであり、「うまくいけば相手を騙して儲けるかも」というモラルハザートを起こさせないことだと思う。そういう意味ではワタシの親は見事に成功したわけである。難しい問題だ。 そんなワタシが中学生になり、きっぷを買うとき、いわゆる普通のきっぷを窓口で手渡されると、なんだか大人になったような気がした。大きく「小」と書かれていない、かつ、右端も切り落とされていない、フルサイズのきっぷ。これはきっと、硬券きっぷならではの喜びではないだろうかと思う。ただ、当時はきっぷの自動販売機は博多駅や地下鉄各駅しか設置されておらず、そちらで購入したことがほとんどないのだけれども。 # by pusuo | 2007-01-30 10:03
![]() いろいろある。廃止された駅、第3セクター化された駅、第3セクター化後に廃止になった駅(高千穂なのだが)。あるいは、竹下や吉塚のように、博多駅のすぐ隣の忙しそうな駅ですら、のどかに窓口で切符を売っていたのだ。 切符をみていると、いろいろと思い出すことがある。 ちなみに一部は郵送で購入した。高千穂などはその例。当時小学生のワタシには、高千穂ははるか遠い土地。行けるはずもない。第3セクター化、または廃止の波が当時の列島の鉄路を覆い、同じようなことをしたファンは多かった。雑誌にも、記念切符の類の案内があり、現金書留で申し込めると書いてあった。 その中でもいくつか記憶に残ってるやつを。 ■昭和64年1月2日 清武駅 「昭和64年」でもかなり貴重品(笑)。 これは、当時発売されていた「正月初夢切符」(だったと思う、1月1日~3日までJR九州の自由席まで乗り放題)で、初日は特急『有明』で博多~西鹿児島を往復し、その夜、日豊本線経由西鹿児島行きの急行『日南』に乗ったときのもの。 当時、学校に、宮崎県の清武出身という人がいたため、「宮崎駅で降りるフリして、清武で降りてネタにしよう」などと考えていたのだが、本当に寝過ごしてしまい、さらに隣の日向沓掛で降りてしまった。 日向沓掛は交換設備以外に何もない駅で、まだ朝の遅い冬だったため、なおのこと静かに眠っているようだった。『日南』は客車列車特有ののんびりとした調子で出発してゆき、遠くに汽笛の寂しい音が聞こえて姿を消した。ワタシは一人になってしまった。 時刻表をよく見ると、折り返しに使える上り列車がある。いや、さらによく見れば、たぶん一つ先の青井岳で直接乗り換えられるはずだったのだが、当時のワタシには、そこまで考える余裕がなかった。 跨線橋を渡り、駅舎に行ってみた。何やら鉄格子のようなモノで覆われた、機械設備しかないような駅だった。待合室部分はあるものの、イスの目の前にトイレが見えていて、とてもここで待つ気分にはなれない。駅前に立っても、誰もいない自転車置き場と、眠ったような小さな住宅街が見えるだけで、それ以外には何もなかった。ワタシはすぐにホームへ戻った。 駅のホームに刻まれている白線(破線)をトレースして歩き、時間を潰した。あと○分、などとカウントした。やがて、遠くからライトの光が見え、475系の普通列車が入ってきた。中の暖房は暖かかった。 さて、間違って日向沓掛に降り、時間を消費してしまったが、この列車を捨てて清武で降りても、さらにその次の列車まで時間的な余裕があったから、全体の列車スケジュールには全く不都合はなかった。これはラッキーだった。 窓口に行き、切符を買うと、「今年初めて切符を買った客」と言われ、小さな時刻表をもらった。確かに正月期間だし、この駅は通勤・通学の性格が強いから、定期客が多いのかもしれない。しかし宮崎における鉄道の地盤沈下は、すでにこの時、現れていた。 その後、西鹿児島まで出、そこから「にちりん」で博多まで引き返した……と記憶しているが、実は清武から後のことをよく覚えていない。 ……ここまで書いて、やたらと長くなったので、他の駅はまた後日(笑 # by pusuo | 2007-01-19 08:31
![]() この上伊万里駅も、大型の木造駅舎だった。 駅周辺は広く、駅舎がなくなってしまうと、なおのこと無駄に広く感じた。 高台にあり、スロープを上り詰めたところに駅舎があり、ちょっと離れた所にホームがあった。 小学生のころ、列車で伊万里まで乗り、なぜか、この上伊万里まで歩いて戻った。それだけ時間に余裕があったということだろうか。ところが巡回中の警官がおり、ワタシは家出少年と思われたのか、住所と名前を聞かれた。ま、ぽつんと小学生がいるには不思議な駅ではある。 このときすでに、待合室側のみが開放され、駅事務所側は完全に閉鎖されていた。窓口らしき部分も全てベニヤ板で仕切られ、観光ポスターやお知らせの類が貼ってあったと記憶している。列車を待つ人がもう一人いた。それだけだった。 町の中心というわけでもなく、駅周辺がにぎやかな場所というわけでもない。開業後は貨物輸送で賑わったらしいが、その雰囲気も全くない。しかし、この立派な駅舎を見る限り、そういう歴史があったんだろうな、という事実を証明しているような気がした。 現在、無人駅では建物を撤去する動きがある。駅員がいないのに建物は不要だし、あればあったで維持しなければいけない。溜まり場になることもある。 バスなどは屋根もなく、ただポールが立っているだけ。そういう駅があっても不思議ではない。無人駅の行き着く先はそういう姿だろうか。もしそうだとすれば、少し寂しい。
下の日記を書くにあたり、wikipediaで筑肥線を見てみた。 博多~姪浜間の廃止区間についての記述があり、 一部にはこの区間については廃止にすべきではなかったという意見があり、当時の鉄道雑誌で存続要望も見られた。しかし、財政的に破綻した当時の国鉄には複線化や電化を行う力は全くなかったため、空港線と引き替えで廃止された。一方、福岡空港や天神を通らない廃止区間のルートでは、現在の地下鉄空港線のような隆盛にならなかったことも確かと思われ、廃止に対する後悔は後年の意見に過ぎないとする考えもある。 という、記事というよりは筆者の「意見」が書かれている。しかし、これは明らかに文中で矛盾しており、「廃止にすべきではなかったという意見があり、当時の鉄道雑誌で存続要望も見られた。(略)廃止に対する後悔は後年の意見に過ぎない(以下略)」。最初に、「当時の」と書いておきながら、最後に「後年の意見」と結んでいる。明らかに変な文章だ。存続=廃止していない段階の継続であり、廃止後であれば、「復活」であろう。 筑肥線の同区間が廃止になったのは、一つは地下鉄との並行路線になるため、もう一つは、周辺道路との兼ね合いである。地平を走る筑肥線は交差する道路も多く、踏切による渋滞が多発していた。一部別府橋のように立体交差化したものもあるが、抜本的には博多~姪浜を完全地下化するか、高架化しなければならない。地下鉄と平行する区間にこの工事を行うのは、当時としてはナンセンスである(が、しかし、都市計画では当然考えられるべきで、七隈線のように、さまざまな理由で蛇行するような路線を新規に造るよりは、はるかにマシではある)。 wikipediaも、筆者によってはアテにならないもんだと感じた次第である。 # by pusuo | 2007-01-18 13:49
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